本日「止めよう!改憲発議―この憲法で未来をつくる11・3国会前大行動」に参加し、ピースボート共同代表として発言しました。ステージ上に、昨年核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞したノーベル平和賞のメダルと賞状を持っていきました。そのときに発言したことの概要は以下の通りです。
憲法9条に基づく不戦の誓いと、核兵器の廃絶は、日本が第二次世界大戦と広島、長崎、沖縄の惨害を踏まえて得た二本柱の教訓であり、基本課題です。
10年前私たちは「9条世界会議」を開催し、日本国憲法9条には世界平和のメカニズムとしての価値があることを確認しました。以来、憲法9条にノーベル平和賞 を!という運動も広がってきました。昨年のICANの受賞は、日本の私たちにとって、戦後平和の基本原則を改めて思い起こさせました。
昨年私はノーベル平和賞授賞式に参加しましたが、その前後でノーベル委員会関係者の多くから「日本は本当に憲法を変えてしまうのか」ということを繰り返し尋ねられました。
今年のノーベル平和賞は、戦時下の性暴力と戦うコンゴの医師とイラクの女性に授与されることが発表されましたが、安倍総理も河野外相も、この受賞について未だ何ら談話を発表していません。(平和に関心があまりないのかな。)
私は先日ニューヨークから帰国したばかりですが、昨日の国連総会第一委員会で、日本政府は、核兵器禁止条約の署名・批准を促す決議案に反対投票をしました。核兵器が禁止され廃絶されることに反対だということなのでしょうか。
核兵器禁止条約に反対する理由として日本政府は、「核抑止力が我が国の安全保障にとって不可欠だから」としています。核兵器が日本の平和を守っているということのようです。しかし本当でしょうか。日本が戦後70年以上にわたって直接の戦争に巻き込まれずにきたのは「核兵器のおかげ」でしょうか。
第二次世界大戦以来、核兵器は戦争を止めたり防いだりするどころか、戦争の危機を煽り、私たちを危機の崖っぷちに追いこんできました。核兵器などという恐ろしく忌まわしく危険きわまりない殺戮の道具によって平和を守るなどというのは、道徳的退廃であり、文明への挑戦であり、空想的観念に過ぎません。
何が戦後日本の平和を守ってきたのでしょうか。これから何を頼りに日本の平和を守っていくべきなのでしょうか。核兵器などという危険きわまりない物体に頼るなんて、まっぴらごめんです。憲法9条を生かした平和的外交にこそ、力を与えなければなりません。
朝鮮半島をみてみましょう。昨年北朝鮮が核・ミサイル実験を繰り返しアメリカがこれに軍事的威嚇をすれば、戦争の脅威は高まりました。今年になって南北朝鮮が対話し米朝首脳が会談すれば、朝鮮半島の平和と非核化の道が開かれました。武力による威嚇か外交か、どちらが平和に近いかは明らかです。
憲法を変えようといっている自民党の政治家たちは「自衛隊や自衛権を書き込むだけだ、自衛だから大丈夫」と言っています。しかしそんなことが信じられるでしょうか。これまでほとんどの戦争は「自衛のため」や「領土保全のため」といって戦われてきました。
しかも、憲法を変えようと言っている自民党の政治家たちは、2015年の安保法制によって、これまで「自衛権」の歯止めとされてた線を力ずくで変更し「これからは集団的自衛権も大丈夫」と変えてしまった人々です。前科があります。この人たちが言う「自衛だから大丈夫」をあなたは信じられますか。
日本政府は、核兵器の保有や使用も「必要最小限の自衛なら憲法違反ではない」と解釈をしています。これが、広島・長崎の惨害を経て平和主義を掲げてきた日本国憲法の解釈として許されるでしょうか。しかも昨年には核兵器禁止条約が「いかなる核兵器の使用も国際人道法違反」と明確に定めたというのに。
国会議員たちは、国民が求めてもいない憲法改定の議論をしている暇があったら、世界が求めている核兵器禁止条約 に署名・批准するための議論をすべきです。それこそ、日本の平和憲法を今日の世界で生かす道です。
(以下、LabornetTVより。レイバーネットの記事はこちら)
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